いたずらに
過ごす月日は多けれど
仏法求める
時ぞ少なし
随分昔に聞いた話です。
アメリカから留学生がやってきて、日本の家庭で生活をすることになりました。
その留学生が、日本の生活で驚いたこと、
「日本の家庭には仏壇がある」そして「その仏壇にお参りするのは、おばあちゃんだけ」
「家に仏壇があるのに、他の家族の人は、なぜお参りしないのだろう?」
と手紙に書いたそうです。
仏壇で日々のお参り、春秋のお彼岸、お盆、年回法事等、仏縁が多くあります。
先立って逝かれた方々を偲ぶとともに、これをご縁として、
私が仏法を聞かせていただくことが、大切であり、尊いことです。
それ故、先人の方々が、多くの仏縁の行事を伝えてくれたのです。
一休さんの歌に
「世の中は食うて糞して寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」とあります。
これをもじって、「世の中は食うて稼いで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」
この世に生を受けて、
食うて稼いで寝て起きて死んでいくだけの人生でいいのかという問いかけです。
仏法を聴聞する人生は「われにまかせよ、そのまま救う」という
「南無阿弥陀仏」の教えに、包まれ、支えられながら、
いただいた「いのち」悲喜こもごもの人生であっても、力いっぱい生き抜いていき、
「いのち」尽きた時には、浄土に生まれ、必ず仏となる「いのち」を恵まれています。
春のお彼岸、仏法聴聞のご縁です。
みなひとの
別れゆく日は異なれど
ふたたびあわん
弥陀の浄土で
(大江淳誠)