願い
神力本願及満足 明了堅固 究竟願 慈悲方便不思議なり 真無量を帰命せよ
お参りに行くと仏前に宝くじがお供えしてあった。
理由を聞くと「仏さまにお願いしたらなんだか当たるような気がするんです」「我々は仏さまの願いを聞いていく宗旨です。願いをかける教えではありませんよ」と諭すと「はあ、そうなんですね」と納得してくれた。
次回、その家にお参りに行くとサマージャンボの時期にも関わらず仏前には宝くじが無い。やはり情熱を持って伝えると人はわかってくれるのだ。と悦にひたり「宝くじはもうお供えしなくなったのですね」と言うと、ニヤッとしながら「うるさく言われるから引き出しの中にしまっています」人間はちょっとやそっとでは考えを変えない。
仏さまの願いは、威神力(想像を絶するような偉大な力)本願力(本物の願いの力)満足願(充分にいき届いた完全な願い)明了願(明らかな願い)堅固願(絶対に崩れることのない願)究竟願(徹底した願い)などと願いやその願いに備わる力をもって示される。これを言葉として終わらせるか、この表現の中に込められた本質に気付くかが、「願いをかける人生」か「願いを聞く人生」かの境目の様な気がする。かけられている願いというものは自らでその温もりに気付くことでしか意味をなさない。
Mさんは20歳の時に家出をし、数ヶ月の間、流浪の日々を送った。しかし、疲労がピークに達し、金銭も底をついた時、罵られる覚悟で家に電話をかけた。受話器を取った母親の第一声は「今日のおかずはあんたの好きなトンカツよ!」
普段と変わらぬ応対に驚き帰路についた。「おかえり」と迎えてくれた母の姿を見て、愕然とした。髪は真っ白で、頬がこけていたのだ。「ただいま」の言葉に深い反省と温かい気持ちが溢れてきた。家を捨て「一人で生きていた」暮らしにすら、母の願いははたらいていたのだった。
(平成25年10月の法話 担当:村上 慈顕)